声を辿っている

彼女の本棚に知人大竹昭子さんが記した「須賀敦子のローマ」「須賀敦子ヴェネツィア」を見つけたのは数年前の夏の終わりだった。白山を愛しその麓に彼女が住み始めてから数年目の秋の収穫の始まりの頃である。私はその夏、鈍行列車で彼女をたずね、数日間北陸と言われる陽気な神戸とはまた違った日本の風景の中にいた。加佐の岬の紺碧に驚き、岸壁に根づく葛の蔦に思い、人生の荒波に負けることなく笑っている家族に囲まれ、惜しくも入れなかった雪の博物館を背伸びして覗き、白峰の山を走った。この数日、彼女から受けた須賀敦子さんの「ユルスナールの靴」の続きが読みたいと思いつついたところ、BSをつけたらちょうど須賀さんの特集をしていて、本の朗読を耳にすることができた。須賀さんが歩いたと思われるイタリアの町の映像に、原田知世さんの朗読だった。水辺に映る銀糸のような光の束やヴェネツィアの石畳に響く誰かの足音に、須賀敦子さんの言葉が重なった。綴られる言葉はまっすぐなものだった。「この本は須賀さんが何も知らない異国の地で懸命に歩き始めた頃の気持ちを正直に綴られたものだと思う」と友人が「地図なき道」を薦めてくれたことがある。本当に大切に思うかけがえのないその思いを大切にしなさい、と彼女から何度教えられたことだろうか。私はその度に懺悔の思いが胸をしめ付け頭を垂れた。そして、大事なものに気づかされた。山道を行きながら、神戸の街で食事をしながら、この一瞬が永遠でないことを彼女から丁寧に教えてもらってきた。
眼の調子が悪くなってからどれくらいの日が経つだろうか。ある夜、急に片目の光を失った。その晩は祈る様に眠ったけど、翌朝救急で病院に行ってみた。急ぎで何かという事はなかった。開けた目の前の闇に戸惑ったことは確かだ。その晩は少し変だった。今日は安静日。ほとんど横になりっぱなし眠りっぱなし。夕方いつもの珈琲屋に本を持って出かけた。近くの古本屋で迷い無く買った藤原新也さんの「なにも願わない 手を合わせる」を読みたかった。その中の「古い時計」というエピソードに妙に惹かれた。
また眠る時が来たみたい。今日も一日が終わります。おやすみなさい。